人形と節句品のお話 中部人形節句品工業協同組合
 
       
 
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お盆提灯

 
壱、お盆提灯の歴史と文化
 

   お盆とは?仏教語ですのでやはりお釈迦様の国、インドの言葉がもとのようです。正式には「盂蘭盆(うらぼん)」という、インドの古語「アヴァランバナ」のなまった「ウランバナ」を日本語にあてたもので、「さかさ吊し」という意味だそうです。
盂蘭盆経というお経の中に、お釈迦様の十大弟子のひとり、目連尊者(もくれんそんじゃ)とそのお母さんの話があります。その母は、一人息子の目連尊者を立派に育てるため食べるものも食べず節約を重ねて育て上げたのですが、そのけちぶりのため餓鬼道に落とされさかさ吊りにされたそうです。その様子を神通力によって知った息子の目連尊者は、自分を育てるための苦労によって餓鬼道に落とされた母を救うため、お釈迦様に教えを乞い、七月の十五日に多くの僧を招いて供養を行い、母を救うことができたということです。
 母とともに餓鬼道に落ちていた人々もともに救われ、水と食べ物で飢えと渇きを癒やすことができたそうです。
七月十五日というのは当時は旧暦ですので、今でも主に関西では八月の十五日にお盆の行事が行われます。地域によって、七月十五日に行われるところや月遅れの八月十五日、旧暦の七月十五日に行われるところなどさまざまです。

 お盆提灯は、古くは鎌倉時代からあったようですが今の提灯とはずいぶん形が異なっていて、切子の灯籠のような形の高灯籠という、庭先や屋根の上に長い棒を立ててその先につけたものだったようです。今の形に近い提灯は江戸時代以前には、主に公家や僧侶などの上流階級でしか使用されておらず、一般の庶民が本格的に提灯を使い始めたのは、ローソクが大量生産によって安く手に入るようになった江戸時代初期以降のことです。

 当時は、お墓は村々や家ごとなど身近にあり、七月十三日にお墓まで提灯をつけてご先祖様の精霊をお迎えに行き、七月十五日の夜や十六日に再び提灯に火をつけてお墓までお送りしたところから始まったようです。
現在のようにお墓が離れたところに集められるようになると、お迎えに行くことがなくなり、お精霊さまが家々の玄関や軒先、お仏壇に飾られたお盆提灯を目印に訪ねて行かれるようになりました。お盆提灯に家紋を入れた方が良い、といわれるのは家紋によってお精霊さまが家を間違わないようにとの気持ちからなのでしょう。

 かつてはお盆提灯は竹ヒゴに和紙で作られましたが、今ではピアノ線に絹やビニロン紙などの素材も用いられるようになりました。ロウソクは今では火災の危険性などもあってほとんどが電球になり、近年は電池で灯るものも出てきました。

 ご先祖の御霊をお精霊さま(おしょろいさま)といいますが、中部地区ではお盆のお仏壇の精霊棚のお供えもふくめて「おしょろいさま」と呼ぶことがあります。このお供えにキュウリの馬や、ナスビの牛があります。これはお精霊さまがいらっしゃるときキュウリの馬に乗って早く走って来られるよう、お帰りになるときはナスビの牛でゆっくりお帰りになるようにとのことだそうです。ですから、キュウリの馬は早く走れるように足を少し長くします。お迎えの十三日は、早く召し上がれるようにそうめんや冷や麦、小さなお団子などをお供えするというところもあります。また、小さな松明を瓦の上で焚いたり、お精霊様のために足を洗う水を張ったタライを玄関に置いたりするのも御先祖をうやまう気持ちからのことなのでしょう。

また、お供えの馬や牛は、昔は川や海に流したものですが今は環境問題からできません。地域ごとに役所などでまとめて焼却してくれるところもあるようですのでお尋ね下さい。お寺さんにお願いしても良いでしょう。

 
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