人形と節句品のお話 中部人形節句品工業協同組合
 
       
 
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お正月飾り(破魔弓・羽子板飾り)

 
壱、お正月飾りの生い立ちと発展
 
【破魔弓(破魔矢)】
 
破魔弓
 

 破魔弓」と「破魔矢」、現在はケースに入った人形店で売られるものが「破魔弓」、神社でいただく絵馬と矢を「破魔矢」とよぶことが多くなりましたが、もとは同じもので、数十年前まではどちらも「破魔矢」と呼ばれていました。弓を主体と考えるか、矢を主体とするかで呼び方が違ってきたのです。都合上、ここでは破魔弓と呼びますが、では、この「破魔」とは何のことでしょう。

 江戸時代の書物に、当時正月に子供たちがワラを直系30cm程に編んだ鍋敷きのようなものを転がして矢を射かけて遊ぶ「はま弓」というものが載っています。「濱」の字があてられたり「はしりまと」の略されたものといわれたり、要するに当時すでに意味がわからなかったようです。

 
  最も古い記述は神代に「ウガヤフキアワセズノミコト」が子供のころ「はま弓」を習い始めたとあるようですが、お正月の飾りとしての破魔弓は室町時代になって床柱の飾りとして現れました。

  鳴弦の儀で見られるように弓の弦を打つ音は魔を払うとされ、お正月だけでなく病気や飢饉、儀式などあらゆる場で行われていました。その弓によって放たれる矢は、まさに「破魔矢」であったわけです。

平家物語の那須与一のように、弓上手は武士の最も誉れとするところで、それは江戸時代になっても色濃く武家社会に残り、それだけに弓矢は神性を帯びた道具だったのです。

もともと破魔弓は壁や柱に掛ける壁掛型でしたが、昭和30年代になってガラスケース入の据え置き型が中心となりました。
 
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【羽子板】
 
羽子板    羽子板も語源のはっきり特定できないもので、江戸時代には上方では「こぎ板」と呼ばれていたそうです。
古くは室町時代の「室町殿年中恒例記」に(正月)「御こぎいた台にすはる也」、また、(十二月の条)「御こぎ板十二(箱に入る、閏年には十三これあり)〜」とあります。この「こぎ板十二」はほうきやちりとりと一緒に大工さんから進上されているもので、なにか他の日用品で「こぎ板」とよばれるものがあったのではないかとも考えられています。

また、同じ室町時代の「世諺問答」には「おさなきものの蚊にくはれぬまじない事也。秋の始に蜻蛉と云ふ虫出できては蚊を取食ふものなり。こぎの子といふは、木蓮子などをとんぼうかしらにしてはねをつけたり。これを板につきあぐれば、落つるときとんぼうがえりのやうなり。さて蚊をおそれしめんとてつき侍るなり。」とあります。
 

 江戸時代になると「貞丈雑記」に「こぎのこ、こぎ板という物を、今江戸にてははごのこ、はご板というなり」とあります。 このように、なぜ「こぎ板」「羽子板」とよばれるようになったか詳かではありませんが、もとは「子木板(こぎいた)」でこれに羽根が付いて「羽子木板(はこぎいた)」となり、これが略されて羽子板になったという説もあります。 
  
 突く羽根の黒い玉は「木蓮子(むくろじ)」で「無患子」とも書き、これに穴をあけて羽根をつけたものです。これを突き上げるとたしかにとんぼのような動きをしますが、蚊のいない正月に蚊に食われないまじないというのも今一つしっくりきません。羽根突きは室町時代にも正月の遊びとされていますので、これは後からつけられた理由のようです。

  江戸時代に江戸ではこの羽子板に人気歌舞伎役者を押し絵で描くことか流行し、現在の羽子板に発展しました。
  美しい羽子板が作り出され、遊びの道具としてだけではなくお正月の飾りとして欠かせないものとなったのもこの頃からです。

 初正月の女の子のお祝いとしてよく贈られますが、毎年お正月に玄関やお部屋にお飾りいただいたり、お座敷やお茶席のお正月の縁起物としてお飾りいただくのもいいものです。

 
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