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源氏物語の中に、光源氏が三月初めの巳の日にひとがたを用いて祓えをした描写があります。同時に、幼い紫上が小さな人形でひいな遊びをしているところも描かれています。つまり、平安時代においては厄除けの「ひとがた」とおもちゃとしての「ひいな」があり、両者は用途も姿もまったく違うものであったことがわかります。紫上が「ひいな」と呼んで遊んでいたのは、いろいろな姿の人や動物のなどを模した恐らく「賀茂人形」のようなものではなかったかと推測されます。「ひいなの家」があってままごと遊びをしていたことなどからも、ちょうど現代のリカちゃん人形のように遊んでいたのでしょう。 |
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紙 雛
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さて、「祓え」としてのひとがたは、室町時代になってそれまでの単に紙や木をひとがたに切り抜いたものから、織物を用い頭のついたひとがたになるにしたがって「ひいな」の要素を帯び、両者は接近してくることになります。ひとがたが豪華な造りになるにしたがって、それは「雛」と呼ばれるようになりました。このころから、今の立雛の原型ともいえる「紙雛(かみびな)」が出てきました。烏帽子に袴姿の男雛、着物を巻いて細帯で止めただけの女雛がそれで、祓えのひとがたの影響が残り、立たせて飾ることよりも手や身体に触れて厄を移すことに重きが置かれていたようです。
江戸時代になると、現在の雛人形の姿に近いものが現れます。男雛女雛が座った姿の雛人形が考案されてこれが主流になります。 |
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そして、この「雛人形」が嫁入り道具の一つになると、男雛女雛に加えて、この嫁入りのときに伴った人々の姿や嫁入り道具が雛人形に加わります。
お供えとして男雛女雛とともに飾られていた三方や菱餅、高杯(たかつき)、お膳などの「お供え道具=膳揃い」に加え、箪笥(たんす)、長持ち(ながもち)、牛車(ぎっしゃ)にお駕籠(かご)などの「嫁入り道具」が加わったのです。嫁入り道具ですから家によってお歯黒道具や水屋、鍋釜食器などさまざまな雛道具が雛人形に添えられました。
これらの道具にたずさわる人々の姿も同時にこしらえられ、お供として雛人形の一部に加わることになったのです。三人官女や五人囃子(ごにんばやし)、隋身(ずいしん)、仕丁(しちょう、じちょう)など雛人形に比べて小さいのは、お道具のサイズに合わせて作られているからなのです。ですから、男雛女雛はお誕生の年にあつらえられても、お供の人形やお道具類は嫁入り道具のミニチュアなので、嫁入りのときに作られることもあったわけです。 |
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享保雛
(諏訪市博物館 蔵) |
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吉宗の時代には享保雛(きょうほうびな)とよばれる豪華な雛人形も作られ、高さ二尺(約60cm)をこえることもありました。このころ、上方では壮麗な御殿飾りも作られていました。段飾りもこのころに現れ、三段、五段〜八段など豪華に飾られましたが、今の段飾りと違い、最初から段飾りとして作られるのではなく、たくさんの人形やお道具を飾るのにたまたま多くの段を要したに過ぎなかったようです。 |
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江戸時代も後期になると裕福な商家も立派な雛人形を飾るようになり、嫁入り道具や供揃いまで一体となって雛人形と呼ばれるようになりました。嫁入りのときの道具のミニチュアとして作られた道具類も、将来、このような嫁入りができるようにとの願いに変わり、最初から雛人形の一部として揃えられるようになったのです。
明治大正になり、一般庶民も雛祭りに蜷人形を飾れるようになり、さまざまな雛人形が作られ、誰もが女の子の無事な成長を願い祝う行事として定着しました。
雛人形は千数百年にわたり育まれた世界に誇るべき日本の伝統工芸品であり、文化であります。そして、世界でただひとつ「お雛さま」と最高の敬称で呼ばれるお人形です。それは、健やかな子供の成長と、平和な家庭や社会を希求する日本人の変わらない心の表れでもあります。
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